ゲーム音楽の作曲技法等(かの名曲:ゼルダの伝説のメインテーマほか)

2017/01/14

音楽理論

友人Aが私のブログの為に記事を寄稿してくれました。ゲーム音楽に全く興味が無い、という方も勉強になる内容だと思います。

前回、私は一つの音楽、ある時代・ある地域の音楽を深く探求するのでなしに、広く浅くつまみ食いして自分の音楽表現に利用しようという魂胆の垣間見える現代の音楽のあり方に苦言を呈したわけですが、様々な音楽を知っていることが直ちに悪いわけではなく、要はどの程度真摯に学ぶ姿勢があるかということが問題なのです。沢山のジャンルを援用した音楽、この方向で明らかに他を圧倒する成功を見せている好例として、映画音楽とゲーム音楽が挙げられます。今回はゲーム音楽に的を絞って、その優れている点を探ることで、皆様に作曲の面白さを少しでもお伝えできればと思っています。

実は私自身はもう殆どテレビゲームをすることはなく、幼少期に遊んだタイトル数も全然多くはないのですが、たまにBGMだけを聴いてみたりしています。雲を掴むようなコンセプチュアルな議論ではなく、今日はネット上で評価の高い楽曲のレビューをしてみたいと思います。楽譜がなくても話を盛り上げられる曲を恣意的に選んでいるので、その点はご理解ください。

1. 「02」(星のカービィ64より)
 この曲は変奏曲になっていて、コード進行が反復するたびに、ストリングスによるメロディラインが変化していきます。このコード進行はぜひ覚えておいてほしいのですが、一般にパッサカリア(Passacaglia)という名前で通用しています。パッサカリアとは、もとはおそらくイベリア半島起源の舞曲由来のテーマで、当初は快活な楽曲が多かった節もありますが、バロック時代を通じて「嘆き・溜息」のテーマとして大変流行しました。コード進行の特徴は、ベースラインが下降することであり、例えばハ短調(c minor)であればベースラインが「ド-シ♭-ラ♭-ソ」といった具合に4音が下降する進行を、ひたすら繰り返します(なお、必ずしも規則的に4音が下降しない場合も多く、それが厳密にパッサカリアと呼ぶべきかどうかといった議論があるかもしれませんが、本質的な問題ではありませんし、とても書ききれるものではないので、この点は割愛させてください。)。パッサカリアの主題による楽曲は現代でも本当に数が多く、同じく評価の高い星のカービィ64の「こうじょうけんがく」もパッサカリアの主題をベースに作られています。バロック時代には、その下降する音型から「嘆き・溜息」のイメージに通じる楽曲が多かったわけですが、現代ではどちらかといえば「カッコいい」と表現されるような楽曲に多く見られる気がします。有名な例では、カール・オルフのカルミナ・ブラーナの冒頭は明確にパッサカリアです。



 と、パッサカリアは名主題として知られるわけですが、これだけ優れた楽曲がたくさん生み出された所以は、このベースラインが下降する音型というのは、ベース上に鳴らす音を様々に変化させやすいからではないかと思っています。以前書いた記事で、私は様々な定型的なコード進行を紹介しましたが、このパッサカリアはほかの主題と比べても群を抜いて和声的に多様性を持たせることが出来ます。また、即興でパッサカリアを演奏していると、たとえ指使いを間違えて意図しない音が鳴ったとしても、そのあとの工夫次第では間違った音をすら即興の一部として自然に組み込んでしまうことが出来ます。本当にほとんどのミスを許容してくれる寛容さを感じます。

パッサカリアの説明が長くなりましたが、今回の曲でのストリングスによるメロディは、だんだんと盛り上がっていくいわば使い古された手法ではあるのですが、非常にこなれたパッセージからは作曲者の底力が感じられます。また、ドラムのリズムも非常に効果的で、「3+3+3+3」の12打が基本単位となっており、偶数回の3打がスネアドラムで強調されているので初めてメロディが入ってきたときに違和感にも似た意外性を感じることが出来ます。また、メロディはおそらく4拍子なのですが、ドラムはあくまで3打を基本としているので、クロスリズムではないのにどこかチグハグな印象を受けますが、それがむしろ音楽的に非常に成功している点も面白いと思いました。オーケストレーションは平凡ではあるものの実直で好感が持てますし、ドラムの合わせ方も秀逸、むしろバロック的なメロディラインはある種悲劇的なニュアンスをすら含ませることに成功していると言えるでしょう。

2. 「メインテーマ」(ゼルダの伝説シリーズより)
・・・・・お気づき頂けましたでしょうか。この曲は冒頭は明々白々に、それから全曲を通じてもパッサカリアの4音下降をベースに構築されています。ただ、おそらく気が付きにくかったのではないかと思います。そもそも冒頭のメロディーを聴いて、どんな印象を受けますでしょうか。雄大な、荘重な、自信に満ち溢れた、威風堂々たるテーマとも言えますが、皆さんが普段耳にする音楽と比べると、どこか浮遊感というか、安心できないような感覚が潜在意識下に蠢いているようにも思われるのではないでしょうか。このメロディーの秀逸さの秘密を解き明かしてみましょう。

パッサカリアの4音下降の主題、これはハ短調(c minor)のコード進行では、例えば「Cm-Bb-Ab-G」となるのが一般的ですが、この場合、一個目のCmの和音だけが、いわゆる短和音(マイナーコード)であり、一般に「暗い響き」と言われています(短和音を「暗い」と言ってよいかどうかの議論はここでは勘弁してください)。そして残りの三つ、Bb-Ab-Gは長和音(メジャーコード)であり、「明るい」とされています。長調(例えばC major)の曲では、全曲を通じて殆ど長和音で作曲されることもあり得ますが、短調(例えばc minor)の曲では、短和音と長和音が織り交ぜて作曲されます。

 さて、この曲の冒頭をハ調のコード進行で表すと、「C-Bb-Ab-G」の様になります。上の例「Cm-Bb-Ab-G」との違いは、最初の和音がCなのかCmなのかの違いだけですが、この違いは単に色彩的な差異としては片づけられない、決定的な意味を持っています。音楽では一般に、曲の初めに鳴る和音で、調性(キー)が決まります。したがって、この曲で初めにCの和音がなったら、普通の感覚ではCの和音を基本とするハ長調(C major)で曲が進行していくと予期できるわけです。このことは、理論を知らない場合であっても感覚的には同じことが起きています。Cの和音が初めに鳴ったら、次に来る和音はたとえばFGG/Bなどと相場が決まっています。Cから始まるパッサカリアであれば、次はG/B(シソレの和音)が普通です。ところがこの曲ではCの次にBbが来ています。これは古典音楽からすれば非常に意外性のあるコード進行です。本来、BbCmの次に来るであろう和音なのに、Cの後にBbが置かれたということは、これは曲の冒頭にハ長調としてのCが鳴った直後にハ短調に転調してBbが鳴っていることを示しています。転調それ自体は一般的な手法ですが、ここまでメロディが始まってすぐというのは一般的ではないです。また、出来上がったコード進行「C-Bb-Ab-G」は、すべて「明るい」長和音でありながら、Bb以降の3和音はもともと「暗い」とされるハ短調の中で「明るい」と分類される長和音ばかりが置かれています。Bbが鳴った瞬間に、理論を知っているかどうかはともかく私たちは「暗い」ハ短調の響きを予期するわけですが、いつまで経っても「暗い」はずの短和音は顔をのぞかせることなく、ついにはひとフレーズが終わってしまいます。わたしはこの大胆な転調が、雄大さから時折覗いて見える不確実性への不安のようなものをこの曲から感じる秘密なのではないかと思っています。冒頭以降も、随所に大胆な転調が見られますが、そのどれも全く嫌味でなく、曲全体の構成のために不可欠な進行であるとすら感じさせてしまう点、作曲者の非凡な和声感覚が伺えます。

3.「森のキノコにご用心」(スーパーマリオRPGより)
 こういう音楽がしばしば中世的と表現されているのを目にしますが、この曲はドビュッシーの影響ですね。彼のベルガマスク組曲のパスピエに非常によく似ています。確かにドビュッシーは中世・ルネサンス期の音楽の要素から学び、彼独自の和声に活かしていますから、悪い感覚ではないかもしれません。

・・・こういう指摘を目にして、何を思いますでしょうか。「所詮昔の音楽のパクリなのか」という感想を抱く人もいるかもしれませんね。印象派的な音楽を理論的に説明することは私の能力を超えていますので、ハナチャンの森の音楽の分析はお任せするとして、ここでは過去の音楽の活かし方について考察し、上述のような感想が如何に浅薄なものであるかを白日の下に曝してみましょう。

ゲーム音楽の作曲家は、それこそ場面に応じて様々な調子の音楽を作らなければなりません。ゲームは、数多くのジャンルの音楽に触れている現代人が遊ぶものですから、例えば作曲家がバロック音楽や古典派音楽にしか精通していないとしたら、ドンピシャで場面にあった音楽を作るのは難しいことでしょう。少なくとも、ロマン派までの作曲語法とオーケストレーション、ジャズ理論の基礎、ロック全般の知識、典型的なルネサンス・バロック音楽や民族音楽の作曲語法と楽器、については知っているだけでなく「書ける」ことが望ましいのではないでしょうか。正式な教育によって習得したか否かは別として。そうなってくると、私が前回糾弾した「音楽をつまみ食いして利用する人」のちょっとレベルが高いバージョンの様に思えるかもしれませんが、優れたゲーム音楽の作曲家の手による作品は、その結果を見ればこういう中途半端なメンタリティからは決して生まれえない、質の高い創作活動をしていることが伺われます。なぜでしょうか。

ここからは多少推測も入りますが、優れた芸術作品を生み出す人たちに共通するメンタリティとして、「独りよがりにならない」という意識が挙げられると思います。例えばピアノを達者に弾きこなし、クラシック系の作曲もできて、しかもDTMのレベルも高いような人物がいたとします。趣味の世界ならともかく、もしこういう人が自分の作品で「お金をもらう」段になったとしたら、ピアノ・作曲・DTMのすべてを自分だけで完結させてしまうことはあり得ないでしょう。作曲は他人には譲れないが、DTMについては絶対の自信があるわけではないような場合、彼は必ずDTMの専門家からアドバイスを得るなり、あるいはアウトソーシングしてしまうでしょうし、DTMのプロを自負するものの、例えばオーケストレーションについては精緻さを欠いているのだとすれば、作曲の専門家に相談するのが当然の態度でしょう。任天堂などの大企業では、様々な音楽的バックグラウンドを持った作曲家がたくさんいるわけですから、こうしたことは日常的に行われていると思ってよいと思います。「一から百まで自分でできる・すべきだ」というような考えは、若いうちは活力の裏返しともいえるので大目に見るとしても、いい年したおじさんにこう言われてしまった日には、「本物」に触れる機会を与えられなかったか、あるいは自分で探ろうとすらしなかったその怠惰と傲慢によって浅薄な精神性を恥ずかしげもなく垂れ流してしまうだけの人生を、これまでも、そして今後も歩み続けるのだという命運をせいぜい呪ってくださいね、としか掛ける言葉がありません。

「自分でむやみに判断しない」というのは、まったくもって「逃げ」などではありません。偉大な人文学者の著作に触れたことはありますでしょうか。日本では中村元や井筒俊彦など、きわめて実証的でその自信みなぎる書きぶりは、確固たるリサーチによる裏付けがあってこその物です。それに引き換え、この両名よりも有名であろう、小林秀雄や吉田秀和はどうでしょう。レトリックを駆使してインテリ気取りの読者を誤魔化し、そして各分野についての専門知識の習得をおろそかにしているほかならぬ彼ら自身をも騙している文章、実証的な研究をおろそかにした感想文を、「評論」という大仰な言葉で権威づけただけのような気がいたします。彼らの業績まで一概に批判するつもりは毛頭ありませんが、少なくとも音楽の知識がないのに音楽を「評論」し、権威であるかのように振る舞うのはやめて頂きたかったものです。

まあ、自分の専門分野以外では人は往々にして適当なことを言ってしまうものですが(大江健三郎など惨憺たる有様ですね)、一人の人間だけでは学ぶべきことが多すぎるような事柄についても、意識的にせよ無意識的にせよ、独りよがりにならないようにすることで十分に「本物」の結果を残すことが出来るでしょう。長くなりましたが、自分の知識のなさを棚に上げて、むやみに「パクリ」だなどと言ってはいけないことですね。ドビュッシーのパスピエはさすがの色彩感ですが、ハナチャンの森の音楽はその一方で反復して聴いても飽きが来ないように(和声的にも)工夫されていると思います。ひとつの作品には様々な情報が含まれています。そして最も大切なのは、技術的な情報を議論することではなく、作品に込められた「意味」や「レトリック」を理解できるように自分自身が学び続けることではないでしょうか。

(1/19補足)とんでもない話を耳にしました。まずは以下の引用をご確認ください。ドラゴンフォースという英ヘヴィメタルバンドの作品『Inhuman Rampage』がメジャーコードを使わずに作曲されたという「伝説」についてです。

引用1
三枚目のアルバム『インヒューマン・ランペイジ』製作の中で「メジャーコードを使わずに作曲をする。」と言う前例がないと思われる制約を課した。これについて音楽評論家の伊藤政則は「自虐的な展開であり、極端にストイックなアプローチで独特で極端なサウンドを創造し、歴史上、誰も到達していない領域にバンドを立たせることになり運命は不思議なものだ」と語っている。しかし、この情報について、フレデリク・ルクレールは明確に否定はしていないが、マイナーコードだけで作曲された訳ではないということは明確であると語っている。出典(2017/01/19アクセス)


 引用2

--- MK : あなた方のサードアルバム "Inhuman Rampage" について、ここ日本では「メジャーコードを使わずに作曲された」という「伝説」がありまして、もちろん本当でないことはわかっているのですが、そういう話があることはご存じですか?

    Fred :本当にそんな話があるの?
--- MK : ええ、日本では Wikipedia にすら載っていますよ。もちろん本当でないのは明らかで、アルバムを聞けばいくらでも簡単にメジャーコードを発見できるでしょう。

    Fred :もちろんだよ。
--- MK : このような突拍子もないデマがどうやって生まれたのか、見当もつかないのですが、おそらく英語の聞き違いとか、翻訳の誤りではないかと。

    Fred :確かにアルバムは全体的に、短調のイメージがあるけど、たとえば "Through the Fire and Flames" のサビ前、「So now we fly ever free~」なんてモロにメジャーコードだろ。それに、キーがマイナーであってもコードはメジャーも当然使われる。まあそういうことを知らない人もいるかもしれないけど、マイナーキーの曲を作るにも当然メジャーのコードは必要なんだ
出典(2017/01/19アクセス)

この引用のあとにインタビュアーの川氏(MK)も指摘していますが、1曲目の冒頭は明確にパッサカリアの進行で、メジャーコードが三連発で出てきます。パッサカリアは、ルネサンス期から今日に至るまで最も広く用いられてきたコード進行の一つで、定番中の定番です。理論を知らないことそれ自体で敷居を高くするつもりはありませんが、この伊藤政則は自らが一切理論を知らないという身分を偽り、しかも理論を知らない読者を欺いている訳ですから、中世の教皇が自らの誤謬と非科学的な態度を隠したいがために、一度ナタを振り上げてしまった天動説という名の嘘を守る為に、民衆には偽りを吹聴し、挙句の果てにジョルダーノ・ブルーノら誉れ高き晴眼の持ち主を殺害するに至ったがごとくの大罪人と言うほかありません。ハッキリ言って置きますが、自らをその名誉のために欺く行為は、必ずや他人を棄損し、殺害するに至る愚行であるということを、皆さんも良く理解して下さい。先に紹介した吉田秀和なども同類で、無知を隠すためにレトリックを用いていたに過ぎないのです。



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