楽器との向き合い方 (演奏技術の上達云々は問題ではありません)

2017/01/12

音楽理論

 今回は、前回「音楽をもう一歩深く楽しむために」という記事を寄稿してくれた友人Aによる記事を掲載します。楽器を演奏する方は必見です。




今回は、私が数年来取り組んでいる古楽について書いてみたいと思います。古楽(Early Music)という言葉は主にJ.S.バッハ以前の音楽を総称するような使い方が多いように見受けられますが、より本質的には、音楽へのアプローチの方法を表出している言葉という説明のほうが適切です。「古楽的アプローチ」とは、楽器・奏法・文化的コンテクスト等々を、その音楽が実際に生み出され、演奏され、受容されていた当時そのままの仕方で音楽をすることを指します。したがって、単にバッハ以前のバロック音楽やルネサンス音楽にのみ有効なアプローチなのではなく、モーツァルトやベートーヴェン、印象派やガーシュイン、あるいはラグタイムやジャズにも同様のメンタリティで臨むことが出来ます。とはいえ私の関心はルネサンス・バロックの音楽にありますから、その当時の音楽が如何に受容されていたのか、その断片を紹介することで、少しでも現代の音楽に取り組んでいる皆様のご参考に供することが出来れば、嬉しい限りだと思っています。


第一弾:楽器について

さて、現代で楽器を演奏するという場合、多くの人は一種類の楽器を専門に取り組み、何種類もの楽器を演奏するのは、ごく一部の才能ある人たちの芸当か、単なる器用貧乏であるかのように考えている人も多いように見受けられます。しかし、わたしは数百年前の音楽家たちの姿を知れば知るほど、現代的なあり方とは裏腹に、仮に一つの楽器でプロを志す場合であっても、楽器は何種類も取り組んでいるほうが良いと思えるようになってきました。

そもそも、現代人は資料の許す限りにおいて古今東西のあらゆる音楽の中から、自分の好きな音楽に取り組む機会があるという点で非常に恵まれていると思います。その一方で、「自分(の考えや感情)を表現するために」これら既存の音楽をいかに利用し、融合し、アピールするか、という観念にも囚われているように思います。しかし、例えば18世紀前半のナポリに生きた人々は、当時旺盛な国際交流が既にあったにせよ、基本的には18世紀前半のナポリの音楽にのみ取り組んでいたと言えます。パリでもロンドンでも、どこでも同じです。当然、彼らは彼らの流儀において過去にも未来にも右に並ぶ者はいないわけで、実際現代のイタリア音楽の専門家がどんなに真っ当なアプローチをしようとも、彼らが現代に蘇ってその音楽を披露してみれば、足元にも及ばないことがだれの目にも明らかになるでしょう。

これは、古楽を知らない友人からは少々驚きをもって受け止められます。「楽器や演奏技術も数百年のうちに進歩してきたのだから、現代人の解釈が劣っているはずがない。」と。しかしこれは単に古い音楽の理解不足であるに留まらず、曇った眼を持ちながらしかもそのことに気が付くことなく上から目線で馴染みのない文化芸術を不当に評価する、自らの勉強不足に対して無自覚であることを誇りとして高らかに宣言しているが如くの愚行であると言わざるを得ません。科学技術なら議論の余地はあるにせよ、少なくとも文化的事柄については、新しいものほど進歩・進化を経ているなどと考えるのはやめて頂きたいものです。進歩ではなく、単なる変化、単なる時代的・地域的差異に過ぎません。

少し話はそれましたが、要はある時代・ある地域の音楽にしかアクセスできなかった時代の人々の楽器との向き合い方は、現代とは大きく異なっていたということを言いたいわけです。例えば今日では鍵盤楽器の作曲家・名手として知られるJ.S.バッハが、オルガン・チェンバロだけではなくヴァイオリンも演奏していたことは有名です。ベートーヴェンやモーツァルトも同様です。ルネサンス・バロック期については、これは現代の演奏家もそうですが通奏低音(当時の伴奏方法)を担当するリュート奏者がギターやテオルボも演奏できたことは普通でしたし、さらにヴィオラ・ダ・ガンバやそのほかの鍵盤楽器、管楽器を演奏できた人も当然いたわけです。そして皆、歌うこともできました。

と、当時の職業音楽家がたくさんの楽器を演奏できたことは不思議には思わないと思いますが、さらに大事な点としては、①これら大音楽家たちは、自分が(達者には)演奏できない楽器についても貪欲に知ろうと努力していたこと、②当時の音楽愛好家たちもまた数種類の楽器を演奏し歌っていたということ、の二点です。一点目についていえば、例えばモーツァルトがクラリネットを深く探求していたことは有名ですし、バッハはオルガン演奏の名手であるとともに、オルガンの構造や調整についても随一の知見を有していたといわれています。今やベルリンフィルのメンバーですらリュートやテオルボについてほとんど知らないということもあるようですし(バロック音楽を演奏する機会があるのに)、現代のピアニストやヴァイオリニストがごく些細な楽器の不調でも大騒ぎして修理屋に楽器を預ける有様であることとは対照的です。二点目については、まず当時の愛好家のレベルは現代同様様々で、プロの音楽家からも尊敬を集めたようなアマチュアもいれば(ボヘミアのロジー伯)、町でギターを弾いていただけの人もいることは理解していただいた上で、それでも音楽への向き合い方としては、その時代・地域で彼の知りえた音楽の総体に対してアプローチしていたということには、レベルの違いは関係がないということを知っていただきたいと思います。少なくとも今の日本人の様に「わたしは歌はちょっと、、、、、」とか、「ドラムやベースのことはよく知らないけど、俺の気持ちはこのギター一本で伝えてやる!」といった、よく言えば奥ゆかしい、悪く言えば音楽への情熱よりも勉強不足と怠惰を体の良い言葉で誤魔化すことにエネルギーを使っているナイーブな態度ではなかったはずです。18世紀イギリスの貴婦人は、人前ではリュートやギター以外の楽器を演奏することは殆ど禁止か、きわめて恥ずかしいこととされていました。「演奏姿勢が下品」だからという理由ですが、こんな制約のない私たち現代の日本人なのですから、もっと気楽にいろいろな楽器を学んでみたいものです。

私自身は、撥弦楽器・管楽器・鍵盤楽器は各種演奏できます。最も得意なリュートは、音色や表現の幅が多彩なだけでなく、独奏に伴奏にと様々な楽しみ方があります。管楽器を経験するとメロディーのとらえ方に明らかに進歩が見られますし、鍵盤楽器は手習い程度ながら、他のどの楽器よりも複雑な書法に対応できるので、作曲の勉強をした際には経験に助けられたという思いを強くしました(前回の記事で書きましたが、理論の勉強は非常に大事です)。わたしも現代人ですから、どうしてもいろいろな時代の音楽を演奏してみたいという思いに駆られることがあります。悪いことではありません。ただ、少なくとも一度はある時代・地域の音楽だけを深く追求してみるという経験をされると、もっと音楽が楽しくなると思います。あまりに多くの音楽をつまみ食いしていると、いざ自分の音楽をする時に、どっちつかずの中途半端な表現しかできなくなってしまうことでしょう。結局あなたよりはるかに一つの音楽を極めた人たちの足跡を表面的にだけなぞって、「利用してやろう」という気持ちがどこかで働くことになりますので。新しい音楽を知ろうとするときは、今やっている音楽に「活かそう」とするのではなく、まずはその音楽を謙虚に、無心に味わうことから始めてみると、「活かそう」などといきり立たなくても、気が付いた時には「活きている」ものです。中世の神学者マイスター・エックハルトは、「神を知ろうとする者は自分自身を捨て去らなければならない。そして自分自身を捨て去ろうという想念にすら一切囚われることがないのでなければ、ついに神を知ることはない」という趣旨の言葉を残しています。「自分自身を捨て去る必要がある」というような考えには、結局そのことで神の恩寵にあずかることが出来るはずだという希望が垣間見えるのですが、希望というのはその実薄汚い願望に過ぎないのです。今の自分には到底理解が及んでいないはずの神をすら、一般の信徒たちは自らの「救い」のために利用しようとしているのですから。音楽でもなんでも、つい経済合理的な利用を考えずにはいられない現代人が肝に銘じるべき言葉ですね。(宗教のことで私に批判を寄せないでくださいね。文句はエックハルトに言ってください。)


最後に、おすすめの古楽CDを載せておきます。
中世・ルネサンス音楽復興の第一人者、David Munrowによる名演。最近散見される「商業古楽」とは一線を画した、ヒストリカルかつ真摯なアプローチです。

イギリスのリュート奏者・歌手Shirley Rumseyによるスペイン黄金時代の音楽。


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当代随一と評されるリュート・ギター奏者Paul O'dettoとハープ奏者のAndrew Lawrence-Kingらによるスペイン・バロック音楽。


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第二弾に続く(内容未定)

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